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シン・リジィ (Thin Lizzy) は、アイルランド、ダブリン出身のハードロックバンドである。
シン・リジィの顔って誰、フィル・ライノットの存在が大きいですよね、そのヴォーカルスタイルは非常に独特でチョッと聴くだけでフィルだと分かります、歌うと言うより語りかけるような歌い方でまるで呪文のような時もあります(笑) そして、ギターリストも一流で当時よく言われていたクレージームーアことゲイリームーア、タイガース・オブ・パン・タンからジョン・サイクスも参加、 実質的に最後となるアルバム「サンダー・アンド・ライトニング」の発表、このアルバムはシン・リジィの歴史の中でも最高にヘビィな楽曲が並んだ名作ですし、上にも掲げているアルバム 「ブラック・ローズ」はゲイリームーア参加でケルト音楽をうまく取り入れた傑作アルバムです。 そして、ツインリードのいつも合い方となる、金髪をなびかせいい男のスコット・ゴーハムはかなりギターうまいです、顔よしテクよしですね。 ドラムのブライアン・ダウニーこの方、職人的な演奏で時々いい仕事してますね〜とほんとドラマーのお手本みたいな人です。
このバンドは「ミュージシャンズ・ミュージシャン」でもあり、プロのアーチストからも人気が高くさまざまな曲がカバーされてます、記事の中にも紹介されてますがボン・ジョヴィ、メタリカなんてバンドもカバーしてますよ。
ゲイリームーアとフィル・ライノットの固い絆も感じます名曲「パリの散歩道」そして今回ご紹介する「Out in the Fields」も名曲、二人の故郷アイルランドの地が二人を親密にしたひとつの要因ではないかと感じています。
続きからメイン記事となります、注意事項を了解されましたら覗いてくださいね、有難うございます。 
しばしば「アイルランドの英雄」と形容される。アイリッシュ・ミュージックを取り入れたメロディと、ギブソン・レスポールによるツイン・リードスタイルが特徴(1974年から解散するまでの間、常にレス・ポールのツイン・リードにこだわった)。リーダーのフィル・ライノット没後20年以上が経過した現在でもなお、イギリスやアイルランドでは絶大な支持を得ているバンドのひとつである。

ヒストリー
結成からデッカ・レコード所属時代まで 1969年、ベース&ヴォーカル、作詞、作曲のフィル・ライノットPhilip Parris Lynott(元スキッド・ロウ)を中心に、フィルの学生時代からのバンド仲間であるドラムスのブライアン・ダウニーBrian Downey、元ゼムTHEMのギタリスト、エリック・ベルEric Bellとともにダブリンで結成(当初キーボーディストもいたがまもなく脱退)。 
当初はOrphanage(孤児院)というグループ名で、パブなどで演奏を開始する。ある日、エリック・クラプトンが参加していることで知られるジョン・メイオール・ブルース・ブレイカーズのセカンド・アルバム『ブルースブレイカーズ・ジョン・メイオール・ウィズ・エリック・クラプトン』のジャケットでクラプトンが読んでいる雑誌"Beano"に興味を持ち(ジャケット写真)、買って読んでみるとその中の漫画のロボット・キャラクターの名がTin-Lizzieといった。ライノットたちはその名を拝借し、アイルランド人が発音しやすいように綴りを変え、バンド名をシン・リジィThin Lizzyとした。 Waiting for a alibi アリバイはシン・リジィー を代表する曲 ツイン・リードがかなでるメロディーは非常に印象が残ります アマバンドがこぞってコピーしてました、決るとカッコいい曲ですね。
1970年7月31日アイルランド・パーロフォン・レーベルから初シングル"The Farmer"でレコーディング・デビュー。たまたまアイルランドのシンガーのレコーディング・セッションに訪れたロンドンでこのレコーディング・セッションでの演奏を気に入られたことから、UKデッカ・レコードとレコーディング契約に至る。
1971年4月ファースト・アルバム『シン・リジィ』をリリースする。初期はアイリッシュ・フォークとロックの融合を基盤としたサイケデリック・サウンドを展開、同年ロンドンでの最初のギグを行う。8月、印象的な詞の作品"Dublin"を収録した4曲EP『ニュー・ディ』を発表.
1972年3月、『ブルー・オーファン』発表。アルバム自体はフィル・ライノットの書く美しい詞が充実した佳作だが、セールスにはつながらなかった。バンドは次第にステージ・パフォーマンスを含め、ロック・バンドへと様変わりし、ライノットの詞もダンディズムを押し出したものへと変貌していく。。

Cold Sweat アルバム「Thunder and Lightning 」からの曲 このアルバムシン・リジィーの中で一番へビィで もちろんジョン・サイクスの貢献度は大。 この曲の中でも弾きまくってます、カッコいい。
同年トラディショナルなアイリッシュ・フォーク・ミュージックをロック風にアレンジした『ウィスキー・イン・ザ・ジャー』Whiskey In The Jar / Black Boys On The Cornerがシングル・カットされ、アイルランドで1位を獲得、英国国内でもスマッシュヒットとなる。
善くも悪くもこのヒットによりショウ・ビジネスの中で生き残ることを選択させられる。BBCテレビの長寿音楽番組Top Of The Popsにも初登場。
1973年9月、エリック・ベルの印象的なストラトキャスターのカッティングで始まる"The Rocker"を収録した『西洋無頼(ごろつき)』をリリース。
しかし、精神的・身体的な理由からベルがこの年いっぱいでバンドを離れる。後にベルはジミ・ヘンドリックス・エクスペリアンスのノエル・レディングNoel David ReddingのグループThe Noel Redding Bandに参加する。
Holy War この曲も「Thunder and Lightning 」からの曲 ツイン・リードがまたまた印象的なフレイズをかなで フィル・ライノットも流石のヴォーカルを披露してます。
ツイン・リード・ギター体制の確立 1974年1月、ベルの代役に同じくアイリッシュ(北アイルランド)のギタリスト、ゲイリー・ムーアRobert Gary Mooreに加入を要請。ムーアは約5ヶ月の間ツアーとデッカ・レコードでの最終レコーディングに参加する。だがムーアはライフスタイルの相違から程なく脱退したため新たにギタリストのオーディションを実施し、スコットランド人のブライアン・ロバートソンBrian Robertson、アメリカ・カリフォルニア州出身のスコット・ゴーハムWilliam Scott Gorhamが加入。ツイン・ギターの4人編成となる。新メンバーにより7月よりアイリッシュ・ツアーを開始。デッカの契約を終結後、ワールド・ワイドな活躍を求めて新たにUKフォノグラム傘下のヴァーティゴと契約、同年10月、グループ4作目にあたる『ナイト・ライフ』をリリース。

解散まで維持されるレス・ポール・ギターによるツイン・リードのスタイルにフィル・ライノットの表現力豊かなヴォーカル、ブライアン・ダウニーの堅実なドラミングがマッチし、1975年8月発売の『ファイティング!!』でそのスタイルは確立される。 前後して1975年3月初の米国ツアー(バックマン・ターナー・オーヴァードライヴB.T.O.、ボブ・シーガーBob Seger & Silver Bullets Bandのサポート)へ向かう。なおリジィは、元々はシーガーのナンバーである"ロザリー(Rosalie)"を自らのレパートリーに加えている(『ファイティング!!』収録)。
最盛期から衰退期まで 1976年3月、代表作ともいわれる『脱獄』を発表。全世界で200万枚を超えるセールスを挙げる。3月より英国ツアー、4月にはシングル『ヤツらは町へ』"The Boys Are Back in Town"をリリース。さらに5月には全米ツアー(REOスピードワゴンREO Speed Wagon、スティクスSTYX、ジャーニーJourney、ラッシュRUSH、リッチー・ブラックモアズ・レインボーRitchie Blackmore's Rainbowらのサポート・アクト)、7月には再び全英で追加公演、とハードスケジュールをこなす。さらに同年8月コンセプト・アルバム色の強い『サギ師ジョニー』を制作(10月発表)する。これら精力的な活動の結果、名実共にシン・リジィはスタジオ・プロデュース作品/ライブ・パフォーマンスともに評判の高いバンドとなる。11月よりプロモーション・ツアー。この時期の熱狂的なライヴは後に『ライヴ・アンド・デンジャラス』としてリリースされる。

1977年、前年末に起こったブライアン・ロバートソンの怪我により再びゲイリー・ムーアにツアー参加を依頼。当時コロシアムIIのメンバーだったムーアは同バンドを脱退しないままこの要請を受託し、1月よりクイーンQueenとの全米ツアー"The Queen Lizzy Tour"に参加。帰国後再びロバートソンとともにレコーディングを開始する(プロデュースはトニー・ヴィスコンティ)。9月『バッド・レピュテイション』発表。

1978年6月初のライブ録音作『ライヴ・アンド・デンジャラス』発表。7月の全英・欧州でのショウの後、8月にブライアン・ロバートソンの脱退、ゲイリー・ムーアの加入を正式に告知。 その後ロバートソンはレインボーを解雇されたベーシストジミー・ベインとともにWild Horsesを結成する。スコット・ゴーハムをのぞくメンバーはムーアのソロ・リーダー・アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』の制作に参加。グループとしてはロンドン、パリで新しいアルバムの制作を開始。
Gary Moore & Phil Lynott- Out in the Fieldsゲイリームーアとフィル・ライノットが名曲を残してくれました。 覚えやすいメロディと力強い二人のヴォーカルが聴けます、 ゲイリーのギターソロも秀逸な出来で満足です。 1979年4月、トニー・ヴィスコンティのもと『ブラック・ローズ』を発表。ケルト・ミュージックと独自の叙事詩を融合したタイトル曲は、力強く、また成熟したシン・リジィの集大成ともいえる名曲である。4月より全英ツアー、9月にはジャーニーJourney、AC/DC、ドゥービー・ブラザーズDoobie Brothersらとの全米ツアーを行う。この最中バンド内でのトラブルから、ツアー中にゲイリー・ムーアが失踪。急遽ヴィサージVisage、ウルトラヴォックスUltravoxのミッジ・ユーロMidge Ureを呼びスケジュールを消化、既に日程を組まれていた日本公演にもメンバーとして来日させてている。

1980年バンド存続の為、ピーター・グリーン、ピンク・フロイドなどのセッション・ギタリストをしていたスノウィー・ホワイトTerence Charles Whiteを参加させ、先行シングル「ヤツらはレディ・キラー」"killer on the Loose"をリリース。続くフルアルバム『チャイナタウン』や、鍵盤奏者のダーレン・ワートンDarren Whartonを加入させての『反逆者』(1981年)ではサウンドやコンセプトなどで試行錯誤を重ねて方向性を見失い、1982年、自らのライフ・スタイルを揶揄したシングル"Trouble Boys/Memory Pain"が結果を見いだすことなくなると、ほどなくスノーウィ・ホワイトは離脱する。
解散とその後、再編成 バンドの人気の低下と、スコット・ゴーハムが自身のメディカル・リハビリテーションを望んだことがきっかけとなったことからメンバーはライノットにバンドの解散を提案、さらに彼らの所属先のレーベルもフィル・ライノットのソロ活動のみを良しとする回答を出していた。
しかしアイアン・メイデンがステージで「虐殺」"Massacre"(『サギ師ジョニー』に収録)のカバーによるオマージュを行ったことや、欧州でのハードロック・マーケットの拡大、ヘヴィメタルの台頭といった当時のNWOBHMブームの中で新たな光明を見出したフィル・ライノットは、ソロ・キャリアーで独立しようとしていた元タイガース・オブ・パン・タンTYGERS OF PAN TANGのギタリスト、ジョン・サイクスJohn Sykesを参加させた。

1983年、ジョン・サイクスをソング・ライティングに迎えて制作されたスタジオ最終作『サンダー・アンド・ライトニング』はサイクスとスコット・ゴーハムのギターが激突する最後のスタジオ作品となった。
3月イギリス最終公演、9日から12日の4日間ロンドン・ハマースミス・アポロ(オデオン)では歴代メンバーをピック・アップしてレコーディングを敢行、不本意ながらも契約最終作としてライブ盤"LIVE/LIFE"(フォノグラム)を作成した。同年4月アイルランド公演、日本での最終公演は5月17日の中野サンプラザ。
解散後の1985年頃には、ブームタウン・ラッツ時代から前座に起用されるなどしてライノットの世話になっていたサー・ボブ・ゲルドフの依頼により、著名なチャリティ・イベント、ライヴ・エイドでの一日限りのバンドの再編に向けての話し合いも行われていた。
1986年1月4日、フィル・ライノット、ヘロインの過剰摂取による内臓疾患、敗血症により死亡。36歳。
同年5月、アイルランドの失業者支援コンサートSelf Aidに於いてシン・リジィは一夜のみの再結成を行った。トリビュート・メンバーはゲイリー・ムーア、ブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ボブ・デイズリーBob Daisley(元オジー・オズボーン・バンド)。
1996年からジョン・サイクス、スコット・ゴーハムが核となりシン・リジィの名前で活動を開始する。2004年にはディープ・パープルDeep Purpleのサポートとして全米ツアーに参加。この間にはフィルへの追悼盤や新たなベスト盤が多く発売されている 2005年8月20日、フィル・ライノットのアイルランドへの功績を記念してダブリン市内にブロンズ像が建立され、式典としてゲイリー・ムーアが中心となって過去のメンバーが集結してシン・リジィの曲が演奏された。
2006年3月から、英国・欧州でフィル・ライノットの没後20周年を記念したツアー"20/20"が行われた。このツアーのメンバーはサイクスとゴーハムの他に、マイケル・リーMichael Lee(元ロバート・プラント・バンド)とマルコ・メンドーサMarco Mendoza(ブルー・マーダー)である。最近はスコット・ゴーハムも積極的にメディアに登場し、今後も定期的に活動していきたい意向を示している。なお、もう一人の結成メンバー、ブライアン・ダウニーは2006年6月時点でゲイリー・ムーアのバンドに所属している。 。 アイルランド ダブリン市内にある、ブロンズ像

備考 1970年代中盤、全米ツアーに出ていたシン・リジィのメンバーは、移動の車内でラジオから頻繁に流れるピーター・フランプトンの大ヒットライブアルバム『フランプトン・カムズ・アライヴ』を耳にする。その頻度があまりにも多かったため、フィルは(アルバムの良さを認めた上でだが)ついに激怒し、「こんなもの俺たちにだって作ることができる!」と言い放つ。その結果製作されたのが、リジィのライブアルバムで代表作のひとつでもある『ライヴ・アンド・デンジャラス』である(DVD『LIVE AND DANGEROUS』内のゴーハムの発言より)。

主なカヴァー・ヴァージョン アンスラックス - 「カウボーイ・ソング」をカヴァー。 エバークリア - 「ヤツらは町へ」をカヴァー。 メタリカ - 「ウィスキー・イン・ザ・ジャー」をカヴァー。 プリティ・メイズ - 「リトル・ダーリン」をカヴァー。 ジョン・ノーラム - 「ワイルド・ワン」「甘い言葉に気をつけろ」「オピウム・トレイル」をカヴァー。 ボン・ジョヴィ - 「ヤツらは町へ」をカヴァー。 スマッシング・パンプキンズ - 「ダンシング・イン・ザ・ムーンライト」をカヴァー。 ソドム - 「コールド・スウェット」をカヴァー。 ダブリン・デス・パトロール - 「コールド・スウェット」をカヴァー。 デフ・レパード - 「甘い言葉に気をつけろ」をカヴァー。 ドラゴンロード - 「エメラルド」をカヴァー。 柴田直人 - 「アリバイ」をカヴァー。 ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース - 「ヤツらは町へ」をカヴァー。(ライブのみ) Bad Reputation シン・リジィーらしい曲でブライアン・ダウニーのドラムが効いて、 それぞれの持ち味が出ています。
ディスコグラフィー 1971年 「シン・リジィ」Thin Lizzy 1972年 「ブルー・オーファン」Shades of a Blue Orphanage 1973年 「西洋無頼」Vagabonds of the Western World 1974年 「ナイト・ライフ」Night Life 1975年 「ファイティング!!」Fighting 1976年 「脱獄」Jailbreak 1976年 「サギ師ジョニー」Johnny the Fox 1977年 「バッド・レピュテイション」Bad Reputation 1978年 「ライヴ・アンド・デンジャラス」Live and Dangerous 1979年 「ブラック・ローズ」Black Rose: A Rock Legend 1980年 「チャイナタウン」Chinatown 1981年 「反逆者」Renegade 1983年 「サンダー・アンド・ライトニング」Thunder and Lightning 1983年 「ラスト・ライヴ」Life 1991年 「デディケイション〜フィルに捧ぐ」Dedication: The Very Best of Thin Lizzy 1992年 「BBCラジオ・ワン・ライブ」BBC Radio One Live In Concert 1994年 「ザ・ピール・セッションズ」The Peel Sessions 1996年 「ワイルド・ワン〜ベスト・オブ・シン・リジィ」Wild One - The Very Best Of Thin Lizzy 1999年 Boys Are Back in Town: Live in Australia 2000年 One Night Only [live] 2000年 The Boys Are Back in Town(Swedith Collection LTD 2CD) 2001年 Vagabonds Kings Warriors Angers(4CD Box) 2004年 Thin Lizzy Greatest Hits

(Wikipedia)
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