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ブログタイトル 6

管理人の流れ星です、皆さん私のブログ閲覧していただき有難うございます。
私のブログはブログ名のとうりにHR/HM中心にと思ったのですが(笑)ジャンルにとらわれずにビビッと来た、懐かしいと思った
アーチスト、バンドを皆さんにご紹介出来たらと思ってます。
 
  

旧ブログmemory of the musicもお世話になりました。

今はプライベート・モードですがパスワードはお知らせに記していますので
どなたでも、気楽に見れると思います。
ブログ名がリンクしてます、よろしければどうぞ!
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注意事項

 当ブログではアーチスト、バンドの雰囲気、世界観を表現する為、 Wikipediaよりの引用、転載、写真、スライドショー等をもちいた記事となっております。

上記表現方法をご理解tと了解いただける方は”続きを読む”をクリックして閲覧していただければ 管理人凄くうれしいです。

 

Blog birthday 2008・09・21

 

 


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エルトン・ジョン(Elton John)
[20140503]
エルトンジョン

エルトン・ハーキュリーズ・ジョン(Sir Elton Hercules John, CBE、1947年3月25日 - )は、イギリスのミュージシャン、シンガー・ソングライター。

皆さん、こんにちは☆彡

ゴールデンウイークも後半にさしかかり、ポカポカ陽気が続いています。

プロ野球ですがドラゴンズもここにきて5連敗となり
借金も5となりかなり厳しい状況ですね。

先発の柱となる人物が誰もいない、初回に大量失点で
ゲームを作れない、これの繰り返しです。

また明日から出直しです、頑張っていきましょう。

エルトンジョンなんですが、中学校のお昼休みによくかかっていた
「僕の歌は君の歌」は懐かしいですね。


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続きからメイン記事となります、、注意事項を了解されましたら覗いてくださいね、有難うございます。

エルトンジョン1_convert_20140501172340


人物

1969年にソロ・デビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で3億枚以上のレコード・セールスを記録した、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。作曲は彼自身によるものだが、作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。芸名は、彼がソロ・デビュー前に参加したバンド、ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)とロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の2人の名前から取ったものである。

1970年代前半に、人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、『ピアニストを撃つな!』(1973年)、『黄昏のレンガ路』(1973年)、『カリブ』(1974年)、『グレイテスト・ヒッツ』(1974年)、『キャプテン・ファンタスティック』(1975年)、『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』(1975年)が7作連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に彼は数多くの快挙を成し遂げている。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。1980年代後半から1990年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。1990年代前半からは復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詩の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウィンド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が、全世界で3,700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は、2012年現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。

彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較されがちだが、メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、ソウル、ディスコに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的である(着ぐるみを着用していた時期もあった)。ピアノの下に隠れての曲弾きや、クライマックスでのピアノの上によじ登ってのゴリラ踊りを行うことも多い。

両性愛者であることでも知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、ジョンは音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と、意に介さなかった。性格は繊細さと荒々しさを併せ持ち、長年自身の容姿にコンプレックスを持っていたとされる。1970年代の前半頃から既に頭髪が薄くなりカツラを使用していたが、1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在は、それらを自らギャグとして披露してもいる。また、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方では、取材に対して饒舌でもあり、舌禍事件を起こすこともしばしばある。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならず、デヴィッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また、クラブチームを保有していた時期がある。

近年ビリー・ジョエルとは、頻繁に「ピアノマン」同士のジョイント・コンサートを行っている。

鉄道にも興味があるらしく[要出典]、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。

カルティエの野外パーティーで急な悪天候により、得意客たちがホテルへ引き返す事態になった際、ホテルのラウンジにあったピアノでジョンが弾き語りを始めたことで険悪なムードが一変し、大変盛り上がった。それ以来カルティエは、彼に頭が上がらないという。 好きになったひとに、カルティエの腕時計をプレゼントするのは、得意のアプローチ作戦である。

Your song


来歴
生い立ち

RAFの飛行中隊長だったスタンリー・ドワイトと妻シェイラの間に生まれた。ドワイトは、彼の母親や他の親類の女性によって育てられ、父親といた時間はわずかであった。スタンリーとシェイラはドワイトが15歳だった1962年に離婚した。母親はその後フレッド・フェアブラザーと再婚し、ドワイトは義父をダーフという愛称で呼んだ。

4歳の頃から、ドワイトはピアノを弾き始める。彼は神童であり、耳で聴いた如何なるメロディーも演奏することができ、彼のピアノ教師によると1度聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたという。11歳の頃に王立音楽院に合格し、職業としての音楽に専念するため、卒業前に学校を離れるまで6年間在学した。初期に影響を受けた人物には、ジム・リーブスなど。ピアニストとしてはヨハン・ゼバスティアン・バッハやフレデリック・ショパンの演奏を得意とした。
デビューに至るまで

1960年に、ドワイトは友人とコルヴェッツというバンドを結成。このバンドは、やがてブルーソロジーに発展する。ドワイトは、日中は音楽出版社への売り込みに走り、夜にはロンドンのホテルで単独でギグを行うか、ブルーソロジーと活動するかのどちらかであった。 1960年代半ばまでには、ブルーソロジーはアイズレー・ブラザーズ、メジャー・ランス、ドリス・トロイ及びパティ・ラベル&ブルーベルズのようなアメリカのソウルやR&Bのミュージシャンのバックバンドとしてツアーを行った。1966年には、バンドはロング・ジョン・ボルドリーのサポートミュージシャンとなり、イギリスのキャバレーをまわるツアーに参加している。

ドワイトは、リバティ・レコードのA&Rマネージャーだったレイ・ウィリアムズによって、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌に載せられた募集広告に応募する。最初の面接でウィリアムズはドワイトに、同じ広告に募集してきたバーニー・トーピンによって書かれた歌詞のストックを渡した。ドワイトは歌詞に曲をつけ、これが今日まで続くパートナーシップの始まりである。

1967年に、彼とバーニー・トーピンとの最初の共作曲「スケアクロウ」が書かれた。トーピンと出会って半年後に、ドワイトは尊敬していたボルドリーとブルーソロジーのサックス奏者エルトン・ディーンの名にあやかり、単独捺印証書によって自分の名前をエルトン・ジョンに改めた。

ジョンとトーピンのチームは、1968年にディック・ジェイムズのDJMレコードにソングライターとして入社。その後2年以上、ロジャー・クックやルルのような様々なアーティストに楽曲を提供した。トーピンが1時間未満で歌詞を書いてジョンに渡し、ジョンは30分ほどでそれに曲をつけた。すぐに何かを思いつくことができない場合は、歌詞を処分した。こうして2年間、彼らはジェイムズが歌手に提供するイージー・リスニングを書いた。

違う音楽出版社のスティーヴ・ブラウンのアドバイスにより、ジョンは彼自身が発売するレコードのために、トーピンと共により複雑な曲を書き始める。最初の作品は、ブルーソロジーのギタリスト、カリブ・クエイがプロデュースした、1968年のシングル「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」だった。1969年には、クエイとドラマーのロジャー・ポープ、ベーシストのトニー・マレーと共に、シングル「レディ・サマンサ」とアルバム『エンプティ・スカイ』を録音した。これらは高い評価を得たにも関わらず、レコードの売り上げは芳しくなかった。しかし、スリー・ドッグ・ナイトに「レディ・サマンサ」をカバーされたことによって、にわかに注目を浴び始めることとなる。

ソロデビュー後も、スーパーで売られる最新ヒットのカバーレコードで「チャートバスターズ」として名前を隠して歌ったり、キング・クリムゾンやジェントル・ジャイアントのリード・ヴォーカリストのオーディションを受けるなどしており(共に不合格)、この時期の活動にはまだ明らかでない部分がある。


エルトンジョン2_convert_20140501173047

1970年代前半

1970年、プロデューサーにガス・ダッジョン、アレンジャーにポール・バックマスターを迎えて制作したセカンド・アルバム『僕の歌は君の歌(エルトン・ジョン)』がリリースされた。全米では、アルバムに先がけて発売されたシングル「僕の歌は君の歌」のトップ10ヒットにならう形で売り上げを伸ばした。ジョン・レノンをはじめとする数多くのミュージシャンが絶賛したこの曲は、彼の初期の活動における代表曲として広く知られるスタンダード・ナンバーである。

クインシー・ジョーンズが絶賛したという彼の最初のコンサート・ツアーには、元スペンサー・デイヴィス・グループのドラマーだったナイジェル・オルソンとベーシストのディー・マレーが参加した。彼らは、ジョンが『僕の歌は君の歌』からわずか半年後にリリースしたアルバム『エルトン・ジョン3』でも演奏していた。1972年からは、ギタリストのデイヴィー・ジョンストンがバックバンドに加わり、彼の活動における黄金期を支えたラインナップが完成する。同年のアルバム『ホンキー・シャトー』は、彼にとって初めての全米1位を記録した。その後、1975年の『ロック・オブ・ザ・ウェスティーズ』まで、彼は7枚のアルバムを連続で全米1位に送り込んだ。本国のイギリスでも『ピアニストを撃つな!』が1973年度の年間チャート1位になるなど、彼の人気は世界的なものとなった。1974年には、所属していたMCA傘下にレコード・レーベル、ロケット・レコードを設立。以降彼のアルバムはこのレーベルから発表された。
1975年のエルトン・ジョン

この時期の作品の中で最も成功したとされるのが、1973年発表の2枚組『黄昏のレンガ路』である。現在もコマーシャルなどで頻繁に使用されるタイトル・ナンバーや、後にリメイクされて幾度もヒットする「風の中の灯のように(キャンドル・イン・ザ・ウィンド)」などを収録したこの作品は、現在も一般的な彼の最高傑作として評される。また、1975年発表のアルバム『キャプテン・ファンタスティック』は、全米ビルボードのアルバムチャートでは史上初となる初登場1位を記録した。1974年に発売されたベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、彼のアルバムとしては最も大きな商業的成功を収め、米国では歴代15位のベストセラーとなっている。シングルでは「クロコダイル・ロック」「ベニー・アンド・ザ・ジェッツ」「フィラデルフィア・フリーダム」「アイランド・ガール」の4枚の作品が1位。他のアーティストとのコラボレーションも盛んに行い、ニール・セダカとの共演「バッド・ブラッド」、ジョン・レノンとの「真夜中を突っ走れ」「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」なども全米1位に輝いた。また、1974年にはザ・フーによるロック・オペラを映画化した『トミー』に、ピンボールの魔術師と呼ばれる役で出演した。

GOODBYE YELLOW BRICK ROAD


1970年代後半
インディアナポリス子供博物館の永久コレクションに1970年代からエルトンジョンのステージの帽子とマスク、、。

1976年発表のキキ・ディーとの「恋のデュエット」は、自身初の全英シングルチャート1位となっている。ハイペースでのレコード発表と並行して、極めてワーカホリックだったスケジュールでのステージ活動はジョンの精神や肉体に支障を来した。『キャプテン・ファンタスティック』の発売後に彼はオルソンとマレーを解雇し、バックバンドの布陣を変えて音楽活動に臨むが、そのような経緯で発売された『ロック・オブ・ザ・ウエスティーズ』は商業的な成功を収めながらも、評論家からは酷評されてしまう。

こういったプレッシャーから彼の心に迷いが生じたのか、アルバム『蒼い肖像』を発売すると引退を表明して、音楽活動を休止する。なお、これを境に、パートナーシップを築き上げてきたトーピンや、バックバンドとの関係も一時的に解消している。ローリング・ストーン誌で、両性愛者であることを公表したのも、同時期である。

約2年の活動休止期間を経て復帰したジョンは、1978年にアルバム『シングル・マン』を発表する。スタッフの面子を一新して制作されたこのアルバムでは、これまで全ての楽曲の作詞を手がけてきたトーピンに代わり、ゲイリー・オズボーンが新たな作詞家として起用されている。その後フィリー・ソウルの大御所、トム・ベルと共にアルバム1枚分の作品を制作するが、結果的にジョン自身の意向によってアルバムはお蔵入りとなり、一部楽曲が12インチシングルで発売されるのみとなった(後年になって全てリリースされている)。1979年にはピート・ベロッティをプロデューサーに迎え、楽曲もベロッティが手がけた異色作『恋に捧げて〜ヴィクティム・オブ・ラヴ』をリリースするが、ユーロビートを大胆に取り入れた作風は評論家には受け入れられず、セールスも芳しくなかった。一方で同年にはライブ活動を再開し、当時のソ連では初の西側ロックミュージシャンによるライブとなるモスクワ公演を行って話題となった。


エルトンジョン3
(wiki)
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2014-05-03(Sat) 18:55 洋楽E Elton John  | TB(0) | コメント(4) | 編集 |

コメント
  • from ちびた

    こんばんは

    この人はとにかく、すっと活躍している人って
    感じがします。ほんとうに才能あるんだろうなぁ。

    いっぱいいいヒット曲があるんですが、なぜか
    最初に頭に浮かぶのは、キキ・ディーとの
    「恋のデュエット」です(笑)





    2014-05-05(Mon) 22:32 | URL | #tHX44QXM [ 編集 ]


  • 息の長いアーチスト from 流れ星→ ちびたさん

    ちびたさん、こんばんは☆彡

    エルトン・ジョンほんとに時代は変わっても
    活躍してますね。

    今回は70年代のヒット曲で絞って紹介しました。
    wikiも80年代、90年代、00年代とまだまだ
    たくさんの記事がありましたがあまりに長いので
    今回は省略しました。

    キキ・ディーとのデュエット曲も前に紹介しましたが
    ほんとに息の合った曲で聴いてる方も思わずのれる
    そんなヒット曲でしたね。

    これからも活躍して欲しいアーチストの一人です。

    2014-05-05(Mon) 23:51 | URL | #- [ 編集 ]


  • from すぱ

    こにちは~

    Your songとかSorry Seems to Be the Hardest Wordとか聴かせる曲うんぬん沢山ありますが
    Black Icy Stareこのノリあるテンポな曲もいい感じだと思ってたまーに聞いたりしてますわ
     (。-`ω´-)ンーいい感じですね~♪



    2014-05-07(Wed) 17:00 | URL | #- [ 編集 ]


  • ピンボールの魔術師 from 流れ星→ すぱさん

    すぱさん、こんばんは☆彡

    ゴールデンウイークも終わってまだまったりしている流れ星ですが
    Sorry Seems to Be the Hardest Wordの方は聞いたことありますど
    Black Icy Stareの方は聞いたことなかったですね。

    初めて聞きましたがブラスが入ってなかなか軽快な曲ですね。
    この曲は何年頃の曲なのかな?

    流れ星はやっぱり70年代のエルトンの曲に馴染みがあります。
    ロック・オペラを映画化した『トミー』に、ピンボールの魔術師として
    登場した頃が一番思い出深いですね。

    2014-05-07(Wed) 18:32 | URL | #- [ 編集 ]


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